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今思えば、これが原体験かも…。任天堂のソーシャルアプリ『Miitomo』を楽しんでいる。トモダチコレクションの様にMiiを使ってコミュニケーションを取るのだけれど、自分のMiiに色んなエピソードを語らせたり質問に答えたり。 そうこうしている内に、Miiとしての自分が出来上がって行くのも楽しみに。 SIE(旧称:SCE)からリリースされていた『どこでもいっしょ』に少し似ている。 Miitomoで『幼い頃に大切にしていたおもちゃは?』との質問が。 真っ先にガンプラが思い浮かんだのだけど、ガンプラは小学生くらいからだったか。 それより以前に大切にしていた、自転車のことを思い出した。 私が2つくらいの頃に買い与えてくれた自転車。 あまり時間もかからずに補助輪なしで乗りこなせるようになったと思う。 それから自転車に乗るのが楽しくて楽しくて。 子ども用の中では少し大きかったので、小学生になっても乗ることが出来た。 幸い、田舎故か自宅の駐車場が広かったので、その片隅に停めていた。 自転車を収納する車庫がなかったから。 そんなある日の夕方、親に来客で中年男性がやって来たのだが、その中年は私の自転車に気づかず進入。その車で私の自転車に接触した。 『あっ!!』 『ああ、自転車があったんか。見えんかった』 中年男性は用事を済ますと、そのままスタスタと帰ってしまった。 納得が行かない私は母親に、何故あの人は人の物を壊したのに咎められないのか!?と訴えた。 すると、 『あんたがそんな車が通る所に自転車なんか置いてるからよ!!』 と怒鳴られた。 小さい私は混乱してしばらく思考がロックしてしまった。 それから何日も何日も「私が自転車を停めていた場所は間違っていたのか??」と自問自答した。 大人になった今考えても、その自転車が置いてあった場所に問題はなかった。 大きな車に轢かれた小さな自転車は、タイヤが歪み、とても乗れる状態ではなかった。 それまでの短い人生の中で、一番のお気に入りの所有物が突然のアクシデントで失われる事になるとは。 修理してでも乗り続けたかったが、小さい私にはどうにもできない。 母親は『そんなもん、もう捨てろ』と言い、父親は『仕方がない』と言った。 父親の方が物言いは優しかったが、2人ともその中年男性に壊された自転車の弁償をしろとは言わなかった。 大人たちは、自分たちの人付き合いに煩わしい波風を立てたくなくて、間違っているとは解っていても、その非常識を平気で見逃す習慣が身についてしまっていた。 今でも私は、それが嫌で嫌で仕方がない。 以来、大人の不審な言動には敏感になり、例え学校の先生が相手であろうと自分には正当な理由があると自覚している事柄においては、その指示に全く従わなくなった。 言葉で私を納得させる事を断念した先生の中には、私の頭を教科書の角やスリッパで叩いたりした。見せしめに、私を教室から追いだしたりもした。 (※この人には従えない胡散臭いと思った先生はその後全員、トラブルを起こしている) 大人になった今でも、納得出来ない事や非常識な事は見過ごせなくなっている。 馬鹿は放っておけ、と言われるような事でも、放っておくと同じ事を繰り返される、今言わなければ!と焦燥感に駆られる。 あの自転車を壊された日、今の私の様な大人が一人でも傍にいてくれたらと思わない日はない。 結局私は、あの頃の私の為に、私の望んだ大人に近づこうと、そればかりを追いかけている。 Miitomoの中には、それらを思い起こさせる質問が沢山ある。 ある側面では、自分を振り返らせる大人向けのアプリと言えるかもしれない。 PR
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